1985年8月K日
キャロリン怒る

レストランにキャロリンというオーストラリア人の女の子が働いている。考えていることを臆面もなく口にする、素直さを絵に書いたような23才の女の子である。
昨夜、仕事を終えたあと、みんなでくつろいで話をしていた時、日本のビジネス社会の話になって、スズキ氏が、「日本にはIntelligentな人たちがたくさんいる。」と言った時、このキャロリンが、「冗談じゃないわ!」と吐き捨てたような言い方で、食い下がったのだった。
われわれが日本語で使うインテリという単語は、もちろんこの英語のIntelligentsia (Intelligent personの意)から来ているのであるが、われわれはこの単語をただ成績の良い人、頭の良い人という意味に使っているようだ。
スズキ氏もここでは、日本企業のビジネスマンたちは非常にハードな勉強に耐え、能力の高い人たちであるということを言いたかったのだと思う。
だが、本来このIntelligentの意味は、それらに加えて、尊敬できる、あるいは成熟した、あるいは思慮分別のある、という意味をも合わせ持つようである。つまり、どうも彼女の目には、わが国から来ているビジネスマン客が、思慮があり、分別をわきまえた、尊敬できる人たちだ、とはとても映ってはいないということのようだ。
以前、寿司やおにぎりを頼みに来た例のオッサンのようなのはウジャウジャとまではいないが、彼らの何人かはこれがホントにオレたちの国を支えているといわれる超一流企業の社員なのか、とオレたちレストランの全日本人従業員の大きなタメ息を誘う大バカヤローでしかない。
彼らの食事を取るマナーを見ていると、これが本当にこの国で数年暮らして来た人なのかよ、と嘆かせられる瞬間があまりにも多くある。
このレストランにやってくるオーストラリア人は、ほぼ例外なくテーブルに向かってきちっと椅子に腰掛け、慣れない手つきながら箸を操って、周りの人たちに気を使いながら、会話とともに食事を楽しむ。ウェイトレスが料理を運んでいくと、彼らは間違いなく、Thank youと微笑みを添えて言い、時には、Looks lovely(まあ、きれい)とか声をかけてくれたりして、こちらも給仕をしていて実に気持ちがいい。
対して、大バカヤローたちはランチタイムなどには通常3~5人でわいわいと押しかけ、メニューにないものを注文したり、大声でキッチンの中へ注文を叫び込んだりする。
そして何よりも許しがたいのは、やつらのウェイトレスやウェイターに対する言葉づかいである。やつらはほぼみんなテーブルに向かって椅子に斜めに座ったり、後ろへふんぞり返ったりするため、給仕する側にとっては非常にテーブルの上に料理を置きにくくなる。体を精一杯伸ばしてヤローたちの体の上にかがむような時でも、やつらは絶対に体をのけようともしない。
そこで、もしうっかり料理をこぼそうものなら、
「オイ、こぼさないでくれよ!」
少し連れの人よりか自分の料理が遅れて出てくると、
「何やってんだよ!早くしてくれねぇと、困っちゃうんだよぉ。」
とか、つかみかかってくる。
自分は大阪出身のため、この手のネチッコイ関東弁で言ってこられると、もう体が震えて、通常、両拳に力がどうしようもなく入ってくるのを止められなくなる。
そして、そこへ、
「バイトしてカネもらってんなら、もうちょっとしっかりしてくれよなぁ。」
とか、追い打ちをかけられると、お客様は神様です、とヘドをこらえて言わなければいけない職場にいるものは、もう怒りを越えてただただひたすら海よりも深い絶望感に陥るのである。
やつらはいったい何のためにこの国にやってきたのか。その問いに対し、オレたちは国際ビジネスの最前線に身をさらし、日本の経済を支えているんだとやつらは言うだろう。
実際、戦後の日本の驚異の発展は疑いなく彼らの努力によるところ大だと思う。われわれ若年層が長期間に及ぶ海外生活を送ることを可能ならしめたのも彼らのおかげだといってよい。彼らが日本の経済的な安全保障を堅固ならしめたことに最大の敬意を表したい。
しかし、彼らは自分たちが企業人である前に、日本国籍を持つ日本の一市民であること、そして彼らは自分たちが日本の市民の代表として外地へ赴いているということを、いったい全体自覚しているのだろうか。
彼らには、モノやサービスを売買することだけではなく、自分たちは各地で日本という国の印象を高めていくべき責務を負った民間外交官なのだという意識が決定的に欠けている。
オーストラリアという国は少なくとも経済の規模とテクノロジーの先進性からいえば、日本とは比べものにならないほど小さくまた遅れている。しかし、この国の人々のマナーやものの考え方から学べるものは、われわれにもまだまだ、それこそ山のようにある。この地に住んでまだ半年にもならない自分でさえそれに気がつくのであれば、彼らもその点は十分に承知しているはずではないのか。
何故、彼らはこの国の人々のいい部分を吸収しようとしないのか。何故、この国のやり方に従って十二分にこの国に溶け込んでいこうとしないのか。彼らのうちの何人がこの国で何でも気軽に話せる友人を作ったか。
昨今の恐ろしいほどの円の強さは、日本が国際社会の中で確固とした政治的、経済的安全保障を築き上げたことを告げている。そしてそのことは、われわれが好むと好まざるにかかわらず、われわれは国際社会の枠組みの中でその有力な構成単位の一つとしての「整合性」を、これまで以上に強く要求されるようになったことを意味している。
つまり80年代以降のわれわれは政治、経済レベルだけではなく、市民レベルにおける国際社会との「整合性」いうなれば文化的安全保障とでもいうべきものを、今後確立していく努力を払う必要に迫られているのだ。
やたら仰々しく聞こえる言葉だが、文化的安全保障の確立とは別に何も難しいことではない。それはただ世界中に、日本ひいては日本人のファンを一人二人と増やしていけばいいだけだ。そのための最も単純かつ有効な方法として、世界に散らばる日本人の人々がそれぞれの地で、できるだけ多くの友人を獲得していかねばならない。
彼ら海外駐在ビジネスマンは、わが国の経済的な安全保障の向上にこの上なく大きく貢献した。しかし、残念ながらわがレストランで拝見する彼らの一部は、わが国の文化的な安全保障に貢献しているとは口が裂けても言えはしない。
むしろ自分には、彼らはその足を引っ張っているんではないかとさえ思えるほどだ。ほかならずオレがこのレストランを通じて彼らを見ていて一番残念に思うのは、彼らが成し遂げた大いなる貢献を彼ら自身の生活態度でもって破壊、相殺してしまってはなんにもならなくなるんじゃないだろうか、ということなのだ。
当然のことだが、外国の文化を理解する努力をしょうとしない人は、絶対に外国人の友人は得られない。そのことは疑いなく国家と国家との関係にも当てはまるはずである。そのことはオレのような者に言われるまでもなく、彼らは頭の中では十分に理解しているはずなのだが・・・。
すべてのパース在住ビジネスマンが上記のごとくではない。もちろん実に敬服すべき態度を取っていらっしゃる方も数多いということをも言っておかねばならない。
そして、かくいう自分もまた、まだまだ大いに反省すべき、とキャロリンとスズキ氏とのやり取りを見ながら、感じ入った次第である。
英語本来の意味の「Intelligentな人」と呼ばれるには、オレはまだまだだ。
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