B-26, 27 アヤコさんなぜああなったのか, パースを改めて思う

1986年2月I日

アヤコさんなぜああなったのか

アヤコさん, いじめ, 原因

 今日、アヤコさんと会うことができた。思っていたよりも元気があって、少しだけほっと安心した。キャンベラでの出来事について手紙に書ききれなかった部分も聞いてみたが、こんな話が現実に起こりうるのか、と改めて怒りを覚え、そしてさらにそれを越えて不思議にさえ思えてくる。

 アメリカ人はこの国の人間をWild peopleとか、Crazy Australianとか呼び、イギリス人はFucking AussiesとかCriminalsとかConvicts(ともに犯罪者の意。オーストラリアの歴史は犯罪者がイギリス本国から送り込まれて始まったことを皮肉った言い方)とか呼ぶが、日本の本やテレビが人なつっこく陽気なオーストラリア人と呼ぶのと比べると、彼らの方がはるかにオーストラリア人の本質をよく知っている。

 彼女がキャンベラで受けた扱いというものをわれわれ日本の基準で考えると、誰が何と言おうと、それは野蛮人による仕業以外の何物でもなく、彼女たちがいくら十代の若者であるとはいえ、その彼女達たちを育てたこの国の人々に対する大きな憤りと疑念を抱かざるをえない。

 カラーサに働く男たちといい、アヤコさんと一緒に行った女の子たちといい、その無能、無教養さには一見文明国の看板を輝かしく掲げているこの国の裏側に潜む相当程度の低い部分が明らかだ。この国を少しばかりよく知るようになったいま、目にも鮮やかな町の豊かさ、美しさ、社会施設の整備具合そして多くの人々の親切さ、人なつっこさ、礼儀正しさ、などすべてが、どこかしらただ表面的なものに過ぎないと思えてくる。

 パースではどちらかというとこの国の良い面を見る機会が多かったが、生活をこの国の社会奥深くんまで定着させていくにつれ、そして言葉が上達するにつれ、この国のどうしようもなく醜悪な部分をも見透かせるようになってきたという「収穫」を得た。

 ただ、しかしながら彼女の話をよくよく聞いてみると、レッドスターの女の子たちばかりを責めるのはさてどうか、と思えてきたことも事実である。彼女の英語は少し見ないうちにこの2、3ヶ月ずいぶん上達したように見受けられる。

 しかしここの国の人々と十分に自分の意思を伝え合うには、まだまだのレベルでしかない。今日彼女と会って詳しく話を聞いて、あの事件をオレなりに勝手に推測すると・・・・。

 アヤコさんは行きのバスの中から英語の力不足により、誰ともほとんど口をきかなかった。それゆえ、彼女はチームメートたちからほとんど孤立した状態にあった。

 そして、時間とともに彼女一人がみんなから完全に浮き出てしまい、キャンベラに着いた時には、とっくにみんな彼女に完全にあいそをつかしてしまっていた。そしてそれまでに積もり積もったうっぷんが、ある時点に一気に音をたてて吹き出した。

 以上が本当のところではないのだろうか。鬼のような言い方だといわれるかもしれないが、その意味で、あのキャンベラでの事件の原因を作ったのは他ならぬ彼女自身のコミュニケーション力不足ではなかったか、という気がしないでもない。

 それに今日の彼女の話では、彼女はジュニアジャパンで時は、セッターよりもむしろスパイカーだった時期の方が長かったということだが、そのことを事前に彼女ははっきりとみんなの前で言うべきだった。実際正直に言って、オレの目には彼女の上げていたトスがどうみても全日本クラスのセッターのものとはとても思えなかった。

 おそらく他のレッドスターの女の子たちも、この子が本当にジュニアジャパンの・・・・?と疑いの目で見ていたにちがいない。そこへもってきて彼女の意志伝達力の乏しさ。結局、あのバスの旅がみんなの疑念という火に油をどっと注ぐ結果になってしまった、というのが今回の出来事の真相ではないのだろうか。

 人間、言葉などできなくても、お互いの意志は伝え合えるものだという言い方をする人は多い。実際ほんのわずかの時間、あいさつを交わし合う程度の付き合いの場合、それは正しいかもしれない。

 しかし、他の人々と正確にコミュニケートできないことの最大の危険は、他の人々から自分に向けられる疑念や誤解を払拭する術をまったく持たないことにある。ここに、アヤコさんの悲劇の原因があったといえるような気がする。

 しかしながら、一番最初にオレが紹介していなければ、彼女がレッドスターに入会することもなかったはずだし、キャンベラにも行かなかったはずだし、チームメイトたちとも会う必要もなく、つらい思いもせずに済んだはずだという自責の念は免れるものではない。本当に、返す返すあの事件は実に残念でならない。

 今後の予定はまだ決めていないというが、彼女の残りのこの国での生活が、過去の出来事を補って余りあるほど有意義のものになることをオレは心より祈りたい。きわめて無責任なようだが、オレにはそれしか彼女にしてあげられない。

1986年2月J日

パース, 夕方, インド洋

 久しぶりの都会はいいものだ。パースに初めてやってきた当初は、なんだ、やたら小さい町だなぁ、と思ったものだが、カラーサという地の果てから飛行機でわずか2時間ほどで一気に飛んで帰ってくると、目に見るものすべてが余りにもドラマチックに変わってしまい、この町がとてつもなく巨大な町に思えてくる。

 カラーサもパースも同じインド洋に面しているが、カラーサの海は危険なところという認識しかないが、ここパースでは鑑賞の場である。特に夕刻インド洋に沈むオレンジ色と濃い青色の空のコントラストは余りに美しい。

 カラーサには高さ5メートルを越す木などほとんどないが、パースは見渡す限り一面町中が緑に覆われて、やはり人間というのはこういう場所で住むのが一番だ、などと悟りきったように思ってしまう。

 日本と比べて決してモノが豊かだとはいえないこの町だが、砂漠に囲まれるでもなく、コンクリートに囲まれるでもなく、暑すぎることもなく、寒すぎることもなく、母なる自然と見事なまでにしっかり調和して息づくこの町を、オレは真の意味で豊かな、ぜいたくな町だと思う。

 兼高かおるさんが、世界中で日本以外に住むんだったらパースがいい、と言ったという話はやはり本当にそのようだ。

 約40キロ四方の土地に100万人弱の人口が実にゆったりと生活しているこの町は、いずれ日本へ帰る自分にはただただ羨ましい限りの光を放つのである。

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