B-59, 60 新O島丸を取り戻す, 名誉挽回そして死亡事件

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1986年7月B日

新O島丸を取り戻す

握手, 新O島丸

 仕事をもらったある船から簡易無線機を借りて、沖で停泊しいているあの新O島丸に連絡を取った。前航で「味噌汁の歌」を熱唱しまくったあの通信長の美声が耳に飛び込んできた。

 船長を呼んでいただいて、船長に、
「あのう船長、今回ウチの方へ、考えていただけないでしょうか?」
と、出し抜けに尋ねると、
「ああ、司厨長に変わるから・・・・。」
となり、そのあと司厨長から注文を読み上げてもらった。

 やれやれ、前回の酒の席でのなごやかさが、数ヶ月前の失敗を忘れさせてくれたらしい。あの決死のヨッパライ営業&運転までした甲斐があったということに。

 今回の注文も前回と同様、相当ひねくれたものだが、彼らが入港するのはコンベアベルトの故障のおかげで早くても4日後ぐらいになるだろうし、今回はなんとかなるだろう。

1986年7月C日

名誉挽回そして死亡事件

死亡

 新O島丸への納入を無事に済ませた。

 今回はあのオヤジさんもニコニコ顔で終始応対してくれた。思えばよくここまで店の体制を整えてこられたものだ。

 当初、一本の香水もなかったのが、今ではシャネルやらイブサンローランやら、5つのトップブランドから合計30数種類の商品を扱うまでになり、洋酒も安物しかなかったのを、日本の店頭で40万円もする高価なものまで幅広くお客さんに選択してもらえるようにした。

 はっきりいって、社長のジェフのビジネスマンとしての才能はこの国の基準でいっても無に近い。そんな中でレイという猫の手よりかほんの少しましなだけの仕事仲間を使いながら、オレとアーノルドとでここまでよくやってこれたもんだ、と我ながら感心する。名誉挽回とはこのことだ。

 アーノルドがジェフに向かって電話でガナリ立てたことも、テレックスを殴るように打ちまくったこともあった。だが、なんとか彼が商品の在庫確保に全力を尽くし、オレが顧客獲得に励んだことが、現在ダンピア・ポートウォルコットに来る日本船の約4割、韓国船の8割を(韓国船はほとんどアーノルドの努力によるところが大きい)受注するこのPOAカラーサ支店のパフォーマンスにつながったのだといえるだろう。

 インボイスにサインをいただいて、船長としばし歓談する。仕事がうまくいったあとというのは、売る側にとってはもちろん買う側にとっても心地よきひと時である。

 じゃあ、これで、とそろそろ席を立つタイミングを探っていた時、それまで大声で話されていた船長が、なぜかここで急変。そして、小声でオレにある話を切りだしてきた。ふだんとはうって変わって、言いづらそうに彼は言う。

「実は・・、なぁ、ハルナさんよ・・・。あのなぁ・・・、うちの会社の船がぁ、いまポートヘッドランドに着岸してるんやけどなあ・・・・、その船が日本からここまでの航海中に・・・・、実はぁ、2等通信士が亡くなってしもうてなぁ・・・。
「えっ!?」
 突然、とんでもない話が出てきてびっくりだ。

「ああ・・・、それは・・・・、どうも・・・・お気の毒で・・・・。」
 外地に出て久しく日本語に不自由が出始めていたオレには、ここでいったいなんといってよいやら、わからなかった。

「・・・うん・・・、それでな、われわれとしても・・・、たまたま隣りの港にしばらく停泊することになったということで・・・、このまま見過ごすことも、・・・どうかと考えててなぁ・・・・。」
「・・はぁ・・・・?」
「そこでなぁ・・、ハルナさんよ・・・・、明日なんやけど・・・、明日・・もしあんたぁ・・・・身体が空いてるようやったら・・・・・・、あんた、ワシらを何人かぁ・・・・、向こうまで運んでいってくれへんやろか・・?

「はぁ・・・・?」
「いや、忙しかったら・・・、無理にとはいわんけどな・・・・。」
「はい・・・。」

 幸い、明日、明後日ともに入港する予定の船はない。オレは、もしマネージャーがイエスといえば喜んでお供させていただきます、と返事をした。

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