1986年7月D日
借りを返す

昼過ぎに新O島丸に寄って、船長、機関長、通信長の3人を乗せ、ポートヘッドランドへと向かった。
途中の景色は、月に一度は向こうへ行くオレにはすでに物珍しいものではなくなったが、彼らにはやはり興味深いとみえて、矢継ぎ早に質問が飛び出す。
「カンガルーはどこや?」
「このへん、家はどこにあんのかなぁ?」
「なんでこんなに暑いんやろ?」
ピルバラにやってくるすべての人と同じ疑問が彼らにも浮かんでくるようだ。
だが、もちろん人がひとり死んだという時に、景色もそれほど新鮮に映るはずもない。ほどなくみんな黙り込み、オレたちは長く単調な砂漠の一本道、国道1号線をただ東へと走った。
ポートヘッドランドに着いたオレたちはまずPOAの店に入って、ボブからだいたいのこれまでの様子を聞いた。そして彼が代理店その他に立ち回ってくれて、オレたち4人は難無く乗船できるようになった。北口さんの言うとおり、このボブはこういう時に頼りになる男のようだ。
船に上がっていくと、2等通信士さんのご遺体はすでにオーストラリア政府の手により冷凍保存の状態でパースに送られたあとだった。遺体はしかるべきその後の手続きが済みしだい、空輸により帰国の途につく予定だという船長の話であった。オレたち4人は故人が最後に息を引き取った彼の自室で手を合わせ、静かに冥福を祈った。
彼が亡くなったのは日本を出てから9日目、このポートヘッドランド入港の5日前。死因はアルコール摂取過多による窒息死とのことだった。
故人はここ数年、アルコール中毒患者のように酒を飲んでいたということで、今回の航海の前にも乗組員の一人が故人に対して病院で検査を受けるように諭していたというぐらい、傍目にも彼の容態は悪化していたようだ。
亡くなった夜、当直を知らせに来た乗組員の一人が床にひれ伏した故人を発見した時はすでに手遅れだったという。
その亡くなった時の様子をとらえた写真を見せてもらったが、ウィスキーのボトルが十数本と日本酒の紙パックが数箱、床の上に転がっていた。亡くなる前の数日、故人は何も食べ物を口にしなかったそうだが、おそらく酒でそれを埋め合わせしようとされたのであろう。
故郷に奥さんと二人のお子さんを残されているそうだが、故人の成仏とご家族の今後のご多幸を心より祈りたい。
明らかにこの船のムードはこの事件以後、オレたち4人が来るまで完全に沈滞しきっていたようだが、その夜、新O島丸からの3人とオレとが加わった供養の飲み会で、少しは回復の兆しが見え始めたかのように思う。
新O島丸の船長のどう贔屓目に聞いても決してうまくはない歌や、通信長の十八番「味噌汁の歌」はこの船の人から盛んな拍手喝采と爆笑とを浴びていた。
多少のマイナス面もあるものの、船の人々のよいところというのはこういう単純さにあるとオレは思う。
ともかく、オレとしてははるばるここまで新O島丸のお3人を連れてきたかいがあったというもの。船長らからありがとうと言われて、これでやっと数ヶ月前の借りを少し返せたと、胸をほっと撫でおろしたのだった。
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