B-66 パース帰還-カラーサを想う

Select-Language

1986年8月B日

パース帰還-カラーサを想う

パース

 パースに帰って再びジュウルハウスに泊まっている。小さな部屋の中でただぼうっと天井を見つめていると、ごく自然と3日前までいたあの北の町を思い出す。数々の思い出が次々とよみがえってくる。

・ピルバラ特有のサイクロン(インド洋地域の台風)の暴風雨に襲われ、一晩中、雨漏りしながら大揺れに揺れるキャラバンで過ごしたこと。
・航海中、イボ痔になった乗組員を病院まで運んだこと。
・日本ではふつう1割引きした価格を算出するのに定価×0.9で計算するが、それをアーノルドやレイ、ジェフ始めPOAの会社の誰一人として理解できず、結局、定価から最後の1の位を削除してまず1割分を割り出し、それを定価から差し引いて算出するという、なんとも小学生的なやり方を強制されたこと。
・EIIの岸壁上で作業中ローダーが突然移動してきて、止めてあった車がコンベアベルトの支柱との間に挟まれ、あやうく中にいた男がペッチャンコになって殺されかけたのを真横で見ていてマッサオになったこと。
・積み込みを終えたあと、乗組員の人たちをライトバンに乗せて、買い物や町見物に連れていくというサービスを最後の3ヶ月間続けたこと。
・オパールをパースの知り合いから安く仕入れて、それを乗組員の人たちに売って、ちょっとした自営ビジネスの気分を味わったこと。
・国道を走っている時、右側は雨が降っているのに左側は晴れているという現象を見たこと。
・車で帰宅時真っ暗のなか、体長150センチくらいの大トカゲが見えず、キャラバンの真ん前でひき殺してしまったこと。
・休日返上。24時間、直径100キロに及ぶ広大な範囲を走り回ったこと。

 などなど数えきれない。

 あの褐色の大地、暑い暑いハエだらけの砂漠も、もう当分(おそらく二度と)見ないとなると、感慨はいやがうえにもこみあげてくる。

 やはり緑のある町というのはいいものだ。季節は依然冬とはいえ、この地中海性気候の町パースには年中花が尽きることがない。人々もここでは「普通」であるし、町全体に常に緊張感が漂うカラーサより、はるかにリラックスできる。あの北の町を引き揚げたあとすぐに見るパースは、オレにはまさに天国の感がある。

 ノリさんはオレが北にいる間に自分の店を持った。有田焼きをメインに、ハッピやら、のれんやら、おもちゃやら、日本の民芸製品を何十種類も揃えて、最近、この国に少しずつ出てきた日本文化に対する関心の高まりに便乗しようという考えのようである。

 だが、現実はきびしくなかなかの苦戦もようである。

 第一に価格の問題がある。彼がこの商売を考案した時には、1オーストラリアドルが200円であったが、現在それはなんと120円にもなっているため、彼の店の小売価格はモロにロケットのごとく跳ね上がってしまった。

 けっこう出入りの客も多く、みんな興味をもって店の中を見て回るが、いざサイフのヒモをという段になると、どうしてもちゅうちょせざるをえないようだ。ハッピ一枚に100ドルを出す気になる人は、やはり少ないだろう。

 それに商品の在庫の少なさ。商品の種類は、畳12畳ほどのあの店の規模としてはけっこう多いといえるが、なにせ1品目につき3、4個の在庫しかないようでは大量に売りたくても売れない。資金力のない零細企業のつらいところである。

 そして、輸入する時間と運送料の問題もある。早く商品を日本の卸し屋から手に入れようとすれば航空便で、時間に余裕があれば船便で送ってもらうことにしておられるが、前者はバカみたいに高くつくし、後者は安いかわりに手元に入るのが発注依頼してから2ヶ月ほど後になる。これでは商品を早く、安くお客さんに届けるという商売の鉄則の維持は、非常に困難だといわざるをえない。

 ノリさんは非常に気の長い人であるが、昼は自分の店での商売、夜にはあいかわらずレストランで仕事という生活では、やはり身体は疲れることだろう。

 それにやはり自分自身の商売が軌道に乗り切れないとなれば、気も相当滅入ることと思う。夕べいつものように晩メシをごちそうになった時、努めて明るさを保とうとしておられたが、気苦労の色は消しきれなかった。

 さてこの先、彼はこの商売をどういう風にやっていかれるのか。なんとか成功していただきたいものだ。

 そして何年か先オレがパースに戻ってきたとき、お互い成功者として会いたいものだ。

<前のページ><次のページ>
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする