1985年8月F日
アヤコさん登場

先々週からレストランに、アヤコさんという日本人の女の子が新しく入ったが、
「ケンさん、バレーボールしてるんですってね。」
と、この前、声をかけてきた。
誰かからレッドスターの話を聞いたらしく、興味を持っている様子なので、「あなたはバレーやってたの?」と訊くと、なんとこのやせっぽちの女の子はスゴイことを話し出した。
彼女は3年前までジュニアジャパンという、日本全国から高校生ぐらいの年代の優秀な選手を集めた選抜チーム、早い話が将来の全日本チーム予備軍の一員でレギュラーのセッターをしていたという。
海外遠征も何回も経験し、たまに全日本の選手と一緒に練習したこともあるという。つまりオレなどのレベルの上空はるか彼方から来たお人だということであった。
彼女は身長が162センチと、バレーの選手としては致命的に小柄で、現在の全日本のセッターの中田久美の登場によって補欠となってしまって、結局高校卒業後はバレーをやめてしまったという。
最初入ってきた時はきゃしゃで英語もたどたどしく、この子ほんまにこの店でやっていけるんかいな、と心配したが、人は見かけによらないものだ、と改めて思わざるをえない。
1985年8月G日
ジョー、マーブルバーでの仕事へ

今日ジョーが出ていった。マーブルバーという西オーストラリア州北部、ピルバラの内陸部の金の鉱山で、ドリルのオペレーターとして働くという。
しかしよくあんなところへ行こうとするもんだ。一度写真集でピルバラの様子を見たが、一面、赤い砂漠と鉱山そして簡易的な人口の町、それだけしかないところである。
われわれ日本人には、オーストラリアというと緑の牧草に群れる牛や羊という風景が目に浮かぶが、実はオーストラリアは砂漠性乾燥気候が国土の約70%を占め、耕地可能地はわずか6%でしかない国である(ちなみに日本の耕地可能地は13%、アメリカは21%。)。
なんでも週給650ドルで、宿舎と食事が会社から支給されるとかで、この国の水準ではかなりの高給をもらうことになるらしい(もちろん、そうでもしないと誰も行かないだろうが)。
6月に会って以来、やつとは忘れられない思い出がいっぱいだ。いつもスーパーマーケットまでオレのフォードエスコートで買い出しに行ったこと、メルボルンへ行ったスチーブンをキッチンの窓から外へ放り投げたこと、近くの公園でユースホステルの連中やロッジの連中とフットボールをしたことなど、大声で笑い合った思い出は数え切れない。
あれはホステルの連中とフットボールをやった日だったか、遅くまでみんなで話し込んだ夜、いつになくこの陽気な大男が神妙な顔で、小声で話したことがあった。
「ケン。今日のゲーム、あの二つのチームで、いったいいくつの国籍が集まったかわかるかい?
オーストラリア、日本、ドイツ、アメリカ、イギリス、アルゼンチン、ニュージーランドと、全世界の国々から集まっていただろ。
今日のゲームがどれほど楽しかったことか。オレたちはただ一心に、無邪気にボールを追った。そして笑い合った。
世界の人々がいつもこんな風に溶け合い、笑い合っていれば、戦争なんて二度と起こらないはずだ。・・・そうだろ?」
最後の戦争なんて・・・とのくだりは、オレの目を見て訴えるような口調で、やつは言った。
オーストラリア人には日本を最大の貿易パートナー国として肯定的に見る人と、この国を歴史上唯一攻撃した国として否定的に見る人と、アジアの国だと完全に無視する人との3通りに大別されるといえると思う。ジョーの場合、どちらかといえば2番目に属し、オレやボズに対してその手の話題を向けてくることが多かったようだ。
だが、あの夜やつが言ったあのセリフ。あれをオレに言ったその理由は果たしていかなるものであったか。やつの日本に対する思いは、オレやボズと会って以来いったいどんな風に変わっていったんだろう。
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