A-59, 60, 61 哀愁のノースロッジ, セッター・リコのカムバック, 今後の迷い

1985年11月D日

哀愁のノースロッジ

ロッジ, ノースロッジ

 ロッジでは静かな日々が続いている。

 冬は峠を越え、といってもこのパースの冬はほとんどの日本人にとってはちょっと肌寒い秋ぐらいでしかなく、この冬の最低気温は摂氏4度。冬の時期の一日の平均最高気温は18度くらい。夜でも上は下着とシャツとセーター、下は下着とジーンズ一枚で何の不足も感じない。

 昼間、PTCの授業が空いている時は、いつもボズと一緒にロッジの裏庭でラジオを聞きながら、オーストラリア的に日向ぼっこをして過ごすことが多い。
 この鹿児島出身の男の本名は司(つかさ)といい、最初それで自分を紹介していたが、誰一人として周りのオーストラリア人が正しくそれを発音できなかったため、他に何かいい呼び名がないかとみんなで考えねばならなくなった。

 オレが、やつの名前は支配するとか管理するとかいう意味があるといったところ、ジョーが「Boss(ボス)」はどうだと言いだした。だが、それでは本人がちょっと大げさだというので、またジョーが、
「なら、ロック歌手のボズ・スキャッグスのボズ(Boz)でどうだ。」
というのでそれに落ち着いたという経緯によるものだった。なかなかカッコいい呼び名だと、本人もまんざらでもない様子である。

 やつはこの国に来るまで航空自衛隊に勤務していた男で、最初はえらく堅苦しいやつという印象があったが、時がたつにつれそれがまったくの誤解だと判明した。

 いたって単純な細胞でできているやつがまき散らすギャグは、あのクソ忙しいレストランで大いに余興、潤滑油の役目を果たし、スズキ氏もやつが入ってきて以来やつを気に入って、それからずいぶん明るくなったようだ。鹿児島出身の男で、九州出身の男性によくありがちな「男は×××だ。」、「九州男子は××××でなければならない。」的口調も、やつが言えば鼻につかず、むしろマン画に聞こえるから不思議である。

 この国への永住を真剣に考えるワーキングホリデイ旅行者は多いが、彼もまたその一人で、オーストラリアに住んだらああなる、日本に住んだらこうなると、いつもさかんに考えを張り巡らしている様子である。さて、今後彼はいったいどういう結論に達するのだろうか。

 もう一人、前のグループから居残ったスチュアートというやつがいる。スコットランド生まれのシドニー育ちで、職業はブリックレイヤー(家や壁のレンガ積み職人)という肉体労働者だが、どうしてどうしてやつはなかなかのインテリ紳士である。

 以前このノースロッジに、岐阜で奥さんと一緒に小学生相手に学習塾を経営しているショージさんという、中年の日本人の男性がおられたが、彼はいつもスチュアートに英語の個人レッスンをしてもらっていた。

 やつはオーストラリアの肉体労働者のような野卑な英語表現は絶対に使わず、きわめて高尚ともいえる英語をしゃべる男で、英語にはまだまだ難のあるショージさんに懇切丁寧に指導をしてやっていた。
 ショージさんがそのお礼にといって、やつの好きなマールボロを何箱か買ってきても、やつは、
「これは、まったくの無償行為だ。」
といって、ガンと受け取ろうとはしなかった。折り目正しい男でもある。

 今年37才で独身を通しているが、ホモにも見えないし、オーストラリアの女の子も見る目がないものだ。

1985年11月E日

セッター・リコのカムバック

セッター

 セッターの一人リコがチームに復帰した。レストランのオヤジとケンカ腰で交渉して、なんとかリーグ戦の最終戦と準決勝と決勝の金曜は休みをもらったという。

 おかげでオレはポジションを追われ、もとの補欠に逆戻りだが、チームにとってはチャンス再来だ。

1985年11月F日

今後の迷い

パブ, 空いている

 ボズ、スチュアートと3人で相変わらず例のBeaufort Hotelのパブへ行くが、どうも最近はいま一つ盛り上がりに欠ける。数週間前、ジョーやスチーブンたちがいた頃の賑わいは、もう完全に遠い昔の物語となった。

 ちなみに馴染みのバーテンダーのポールがいなくなったが、聞くところではやつは店のレジカウンターから売上金を盗んだとかでいま監獄暮らしとのこと。このBeaufort Hotelは何でも起こるところだ。

 ボズは正月にはとりあえず日本に帰るというし、スチュアートも近々どこかのアパートへ移る腹づもりでいるらしい。そして、オレも次の行き先をスーパーリーグが終わるまでに決めねばならない時期にさしかかっている。

 北へ上がるが、東へ行くか。それに、はたしてこの国に1年いただけで帰国するべきかどうか。ワーキングホリデイビザは最高12ヶ月までしか延長できないのが原則となっており、通例それ以上はこの国に滞在できない。

 だが、会社を辞める時、オレの尊敬する部長から言われた、もし行くのなら最低2年もしくは3年は行くべきだ、それ以下ならば行く価値はない、という言葉がオレの耳にはっきりと残っている。モグリでもこの国に長くいた方がいいんではないだろうか、そんな気が最近し始めた。

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