1987年2月D日

午後8時、冷房のよくきいたリビングルームでオレは香港から来たという「カモ」と静かな戦いを展開していた。勝負が始まって一時間半、手持ち現金5,000ドルで開始したオレの手元にはすでに8,000ドルの紙幣が置かれている。
香港ガモは白いひたいに青いものが浮き始め、訛のキツイ英語がさらにキツクなってほとんど聞き取れないほどになってきた。もっともオレのつたない英語よりかははるかにマシだが。
オレと親になった男の暗号のやり取りは冴え渡り、約3回に一回の割で負けはするものの、完全にこの場での勝負の流れはオレたちの手中にあった。
ガールフレンドという女の子はこの中年の男にしてはでき過ぎぐらいの超ベッピンで、オレは早くこの勝負を終えて、ホテルのラウンジで待っているはずの美人ホステスさんの顔を夢見心地で想像していた。
時計が午後8時40分を過ぎたころだったと思う。香港ガモが起死回生の大勝負に出た。やつは自分の札に絶対の自信があるのか、なんと2万ドルの賭けに出てきたのだ。
オレの札はクィーンとエースのブラックジャックだ。負けるはずがない。だが、オレの手元には資金が1万ドル弱ほど足りず、オレがその分のカネを用意できないとなるとこの勝負は負けになってしまう。
親になった男が、
「大きな勝負になったな。こっちの日本のオニイサンは資金切れのようだ。そうだな、ここでちょっと間を置こう。二人とも札をこの金庫の中に入れてくれ。」
「日本のオニイサンよ。どうする?いまならまだ、マネーチェンジャーでカネがおろせるよ。」
と言いながら、目でオレに外へ出ろ、という合図をした。
オレは手元の1万ドル強のカネを大切にかばんにつめて、マンションの外へ出た。そして、それを追うようにして親の男が出てきた。香港のカモはソファの上に寝そべっている。
男は言う。
「まいったなあ、やつがあんなに資金を用意していて、なおかつガッツのあるやつだとは思わなかったよ。しかし、こうなれば受けて立つよりほかはない。そうだろ?」
「・・・うん、そのつもりだけど。しかしカネはどうするんだい?オレの持ち金じゃあ足りないし・・・。」
「そうだな・・・・。でももう少しあんたもまだカネは出せるんだろう?」
「まあ、考えてもいいな。で、オレの札はブラックジャックで負けるはずはないが、相手はどうなんだ?」
「いや、それが今回はあんまり確信がもてなかったんだ。だけど、あんたのは最高の札だ。負けはありえない。」
「・・でも、もしオレがここで自分のカネを使ったとして、それが必ず返ってくるという保証はあるのかい?」
「なあに、この勝負に勝ってしまえば、いくらやっこさんでも二度とこんな大きな賭けはできなくなるさ。で、あんた、いま手元にいくらあるんだい?」
そう言って、やつはオレの腰のポシェットを指差した。
オレはこのときトラベラーズチェックでこの時約8,000ドルもっていたが、全部はやはり出せない。
「全財産は4,500ドルだ。そのうち数百ドルはどうしてもまさかのために残しておく必要がある。だから・・・、4,000ドル出そう。あとはあんたの方でどうにかしてくれ。」
と、持ち金を偽って伝えた。男は横を向いて少し考えている。
「仕方ないな。あと6,000ドルか。うん、まあなんとかなるだろ。・・・じゃあ、あんたはその4,000ドルを現金に換えてきてくれ。オレはオレで6,000ドル集めてくる。そして9時45分にこのマンションの一階で落ち合おう。カネはその時にあんたに預ける。そしてオレが先に部屋に帰るから、あんたは少し時間をずらして入ってきたらいい。」
「・・・・・・・。」
「なあに、大丈夫。オレにすべてを任せておけよ。なっ、サムライ。」
オレはタクシを呼んでもらって言われるままに市中のマネーチェンジャーで4,000ドルを現金化して、やつが持ってきた6,000ドルをふところにしのばせ、マンションの外で部屋へ入るタイミングをうかがった。このまま逃げて、このカネを着服してしまおうかとも考えたが、やはりオレは日本人だ。その誇りを自ら汚したくはない。
それに、なんといっても部屋に帰れば、まだ数万ドルさらに稼ぐチャンスが残っている。ここでドロボーに身を落とす必要はない。
部屋に戻ると、香港ガモはむっくりとソファから身を起こした。そして、
「うまくいったかい?」
と、あいその良い笑いを浮かべて、尋ねた。
「なんとかね。」
オレはそう言って用意したカネすべてをテーブルに広げた。中年男は、
「じゃあ、勝負に戻るか。」
そう言って、ガールフレンドに金庫の扉を開けさせた。
オレはオレの札の入った封筒を、香港ガモは彼の封筒をそれぞれ取り出した。そしてそれぞれのカードをテーブル上に広げた。
出てきたやつの札はクローバーのエースとハートのクイーンの21のブラックジャック。だが、オレのはスペードのエースとスペードのクイーンのブラックジャック。この日のゲームではスペードが他のマークよりも強いというローカルルールだったので、勝利は見事オレのもとへ。
2万ドルが目の前にドーンと置かれた。オレは生まれて初めて見るドル紙幣のかたまりのあまりにも重量感あふれる姿に圧倒され、両目が血走りながら潤んでいくのを止めようにも止められない。「ヤッター!」という叫び声を上げる場所を捜して、その場を走り出したい衝動を必死に押さえたのだった。
勝負はさらに続いた。この香港ガモはオレたちのトリックに気がつく様子もなく、信じられないほどの資金量で、なおねばり強く挑んできた。
午後11時半を少し過ぎたころ、どちらからともなく、あと5回の勝負をもって今日はおひらきにしようという取り決めがなされた。この時点でおれの手元には約2万5千ドルの現金が蓄えられていた。ここを乗り切ればあとはマンダリンホテルのホステスさんの・・・・・・。
だが、その5回のうち2回目と4回目、5回目の勝負に、オレは親である中年男の暗号を読み間違えてしまい、なんとそれまでにあったカネすべてが一気に香港ガモの手元に移ってしまったのだった。
5回目が終わり、親の男がオレの手元からあの薄緑色の紙幣の束を相手に渡した時の絶望感は、もう筆舌の表現を越えた。オレは全身の水分を抜き取られたように、体がカサカサにしぼんでいくような錯覚に襲われた。
もともと無表情な香港ガモは会心の笑みならぬ、会心のポーカーフェイスをきどっている。親の中年男は黙って下を向いているだけだ。ガールフレンドはキッチンでコーヒーを作っている。オレと中年男にとって耐えがたい静寂がこのシンガポールではごく普通の広々とした4LDKのマンションのリビングルームに漂った。
「オレはこのままで、この勝負を終わらせたくはない。」
と、オレは小声ながら語気強く、静寂にメスを入れた。
「あんた、もう少し勝負を続ける気はないか?」
香港ガモ(いまではオレが日本ガモだが)は、
「いや、今夜はもう無理だ。長い勝負で神経がもたない。だけど、あんたが望むならもう一度勝負してもいいと思っている。オレは明日シンガポールを発ってマニラ経由で香港へと帰るが、どうだ?再試合は香港でというのなら、オレはありがたいんだが・・・。」
オレは中年男をにらみつけて、
「あんたはどうだい?もしあんたさえよければ、今夜と同じように、また3人で場をもてればと思う。それが香港であろうが、バンコクであろうが、北極であろうが、オレはどこへでも行くつもりだが・・・」
と、言った。
中年男は一瞬目を天井に向けたが、すぐに、
「あんたたちが望むなら、オレもこの勝負、どこまでも付き合うよ。」
「じゃあ、日取りと場所はどうするかな・・・?」
リターンマッチは決まった。場所は香港。会うのは今日からちょうど一週間後。オレはそれまでに香港に飛び、その当日午後7時にペニンスラホテルの一室で中年男からの連絡を、待つということになった。
コメント