1986年6月A日
飲んだら乗るな、乗るなら飲むな!命懸けの生還

2ヶ月前の失敗以来、注文を断られっぱなしの新O島丸が2日前ポートウォルコットでうまいメシをごちそうしてくれた船の反対側の岸壁(ポートウォルコットのこの長さ2,700メートル、幅約8メートルの桟橋は両サイドに船が1隻ずつ着岸できるようになっている)に着岸した。
今回の注文もシーレーンの方へ行ったということを事前に確認しており、オレはただあいさつのため昨夜の8時過ぎに乗船していった。
上がっていくと、ふだんはみんなが集まる食堂にも座敷にも誰もいない。聞くとみんな釣りをしに出かけたとのことで、船長と通信長がいるらしいという船の先端まで歩いた。
さすがに20万トン級の船ともなると勝手が違って、なかなか先端までたどり着かない。全長300メートルをゆうに超すこの鉄鉱石運搬船はやはり巨大だ。
このあたりの海の釣れ具合は、通信長の言葉によれば、
「ホンマ入れ食いやで、ハルナさん。」
とのことで、船長、通信長ともに60センチから80センチぐらいのチヌやタイをバケツ一杯釣り上げていた。
「あとでうまい刺し身食わせたるから、まあ風呂でも入ってこいや。」
というありがたきお言葉をいただき、オーストラリアへ来て以来3度目の湯舟付きの風呂に入らせてもらった。
ゆっくり浴槽につからせてもらって座敷へ降りていくと、すでに船長、通信長、司厨長とオヤジさん(あの時オレに怒鳴りまくった人。今はもうあの時のことは笑い話になっている)とで、宴はすでににぎにぎしく始まっていた。
船長が、まあいっぱいいけや、とビールをすすめて下さった。元来嫌いな方では決してないがため遠慮なくいただく。卓の上には取れたての3色の刺し身や手作りのおつまみの類がずらりと並んでいる。
通信長が、
「まあ、この味噌汁をいっぱいやってごらん。」
というので、いただく。
通信長はふだん非常に静かな人だが、酒が入るとよくしゃべるしよく歌われる。この夜も、みんなから、
「通信長さん、十八番たのんまっせぇ!」
とはやしたてられ、カラオケで千昌夫の「味噌汁の歌」を3回ばかし歌っていた。
そして、オレに向かって、
「ハルナさんよォ。あんたぁ、味噌汁飲んどるかぁ?」
「はぁ、いただきます。」
「おまえ、日本人やったら、味噌汁飲まなぁあかんでぇ!まあ、このオヤジの作った味噌汁、まぁ一杯いけや!いっぱい!」
「はぁ、いただいてます・・・。」
「ほんま、オヤジの作ったこの味噌汁は最高やで!もう一杯や、もう一杯。ほれ!」
とかいう具合にからんできた。おかげでオレは味噌汁をこの夜、自分新記録の合計5杯かき込むことになったのである。
いつも仏頂面の司厨長も、熊本出身のこわいオヤジさんも、今夜はゴキゲンで杯を重ねている。しだいに一等航海士さんや他の乗組員の皆さんも集まって、ワイワイとまさに宴たけなわとなってきた。
オレたちが前回に香水を持ってこれず、がっかりさせてしまった二等機関士さんも、いろいろと話をして下さる。船の人々、特に未婚の方が何のために香水なんて買うのかなぁ?と、不思議に思って聞いてみると、やはりガールフレンドや奥さんのためにだそうだ。そう聞くとなおいっそう前回のことが申し訳なく感じられてしまう。
実際、この船に限らず、船の乗組員の人々というのは話をしていて感じのいい人が多い。この仕事をやる前は、船というのは大酒食らいで、バクチ、オンナに狂いまくったヒゲ面のオッサンたちが、大声で吠えながら生活しているところなのだ、という先入観があったが、今となってはそれは完全に消えた。
こうして寄港してくる船へずうずうしく上がらせてもらって一杯ごちそうになるのが、現在のオレのこの砂漠の町での何よりサイコーの楽しみである。
船長は他の乗組員の人たちによると、相当の酒好きで、飲み過ぎるとくどくどとからんでくるということであったが、今夜もこの例にもれないようである。
「ハルナさんよぉ。船長というものは・・・。」
「ワシも船長になってもう十数年、あのころは・・・。」
地球上どこにいても、日本人の酒の場でのセリフは変わらないようだ。周りの人たちは船長のクセを十分承知しているらしく、誰も近寄ろうとはしない。結局この夜はオレが彼の相手を務めさせていただくハメとあいなった。
そうこうしているうちに、オレも調子にのって杯を重ね、時が過ぎ、昼間の積み込みの疲れも手伝って、どうしても身体全体が心地よすぎるようになってきた。船長がすすめるのを、
「いや、もうけっこうです。」
と、断ろうとするが、
「まあ、一杯だけや。」
「あの、車で来てますので、帰りの・・・。」
「なに!?おまえ、オレの酒が飲めんちゅうのんか!?」
とか言い合っているうちに、座敷にはオレと船長だけが残されていた。こんなにベロベロに酔っ払ってしまったのはこの国へ来て初めてだ。
コップの日本酒の残りをようやく飲み干して、立ち上がろうとするが、真っ直に立てないぐらいにまで頭の中は大シケで、座敷の部屋全体が、前後・左右・上下にグルグル回り始めた。
時計を見ると午前2時。このまま朝までここで休ませてもらうかと考えたが、桟橋の先端の駐車場に停めた車を朝まで放っておいて作業員の邪魔になるようなことにでもなれば、オレたちPOAがこの港での商売を全面的に禁止されることは、明白すぎるほど明白だ。
立ち上がれず、ゴロゴロとひとり床に転がりまくって、
「おい!船長というものは・・・。」
「わしは、あの時!・・・・・でぇ・・・。」
とか、何かわけのわからないことを天井に向かって大声で叫んでいる船長に、サヨナラを言ったかどうかさえまったく記憶もない。オレはとにかく帰らねば、とこの新O島丸をあとにすることにした。
船からタラップを降りている時最中に2度ズッコケ、緩衝岸壁から本岸壁に上がる階段でもズッコケながら、なんとか這うように上り切り、岸壁の上をジグザグ千鳥足で車の方へと帰った。一歩足を踏み外せば暗黒のサメの海へとまっさかさまに落ち込み、イッカンの終わりとなる場所だ。
そして、今思い出しても身震いするのは、高さ25センチの木のブロックのガードレールしかないあの全長2,700メートルの桟橋を自分で車を運転して何とか無事に岸までたどり着いたことだ。
あの時のあのベロベロ具合で、マヒするスピード感覚を抑え、グルグル回る視界の中で、揺れるハンドルをよく真っ直にかまえていられたものだと思う。
さらに、桟橋から我が家までの1時間65キロを事故せずに帰れたというのも、半分以上奇跡だ。
時刻も午前2時を過ぎて、砂漠の一本道に対向車も合計で3、4台だけだったと記憶するが、1秒でも早く家までたどり着こうとしたため、車は時速100キロで疾走していたはずだ。
ローボーンのT字路を右に曲がって国道1号線に入ってから、道路は直線部を長くする。途中、鉄鉱石運搬のための鉄道の踏切があるが、もし夕べ例の200両編成の列車がたまたまあの時に1号線を横切っていたならば、オレは車もろとも激突、鉄鉱石の粉末を真っ赤に染める絵の具になっていたことだろう。
また、走行中、何度も何度も窓から吐いたため、翌朝見てみると、ライトバンの右側面にはオレの未消化物が見事なまでの美しき放射状にベッタリとへばり付いていた。
いまも頭の中はガンガンとドラが響く。真っ青のほっぺたに針を突き刺してみた。やっとオレはまだサメのエサにもカンガルーのエサにもなっていないことがわかった。
本当に今日ばかりは心からいえる。神様、ありがとうございました。
ああ、こんなクサッた場所で、いったい誰が死ねるもんか!
<メモ>
このカラーサ近辺だけに限らず、当時はパースでも(おそらくオーストラリア全土で)アルコールを飲んで運転することはほぼ普通だった。
ダンピアは人口4,000人で典型的なオーストラリアの田舎町だが、その真ん中に小さな広場があって、ショッピングセンターや警察や役所の分所などが集まっている。そしてその広場を囲む建物の中にこの町唯一のパブがある。
驚くのは、午後9時くらいその広場に行くと、パブから出てきた数人のヨッパライが、
「お前、これからうちでもう一杯やるか!」
「いや、あと3杯だ!」
「この前なかったウィスキーはもう買ってあるのか?」
とか、大きな叫びまくっていることだ。
広場の一角が警察の建物であるのに、警察官が出てきて注意したり、切符を切ったりということはまるでなされない。
オレがこの日何も考えずに酔っぱらって運転して帰ったのは、この国ではごく普通のことなためだ。
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