1986年8月B日
西オーストラリア州を去る

アヤコさん始め自分が知ってるワーキングホリデイのパース滞在者はもうみんな数ヶ月前に日本へ帰っていない。あの自由な日々を過ごしたノースロッジに知り合いもいなくなり、PTCの先生、スズキ氏はじめ、以前お世話になった人々にもあいさつをすませた。
レッドスターのみんなとは連絡を取らず。アヤコさんのことがひっかかり、どうしてもその気になれなかった。キャンベラへの試合ツアーへ同行した誰かと会って、実状を確かめるべきだったのかもしれないが・・・。
ビザの期限もあと3週間ちょっとになったことだし、いよいよ1年半を過ごしたこの西オーストラリア州を去る時が来たようだ。まだ行っていない東海岸の町へと出発しようと思う。
明日にでもシドニー行きのバスのチケットを買いに行くか。
1986年8月C日
ヨーロッパへ行く-その理由
とうとう東行きバスのチケットを買った。シドニーまで130ドルとは破格に安いもんだ。しかもアデレードとメルボルンで途中下車が可能という理想的なチケットに感激。
さてカラーサでの8ヶ月間で、知らぬ間に貯金が9千ドル近くにもなっていた。我ながらよく働いたものだと感心する。もっとも食費とビール代以外は支出することもなかったがため、この程度の貯金はあの地の果ての北の町で働いた出稼ぎ労働者には当然の結果ではあるが。
オーストラリアという若く豊かな国に長く住むと、どうしてもその反対の国々、つまり歴史の古い国や貧しい国などをこの目で見てみたいという欲求が自分の中にごく自然に沸き上がってきていた。
西洋文化のルーツを持つヨーロッパに行きたいという気持ち、物質的には貧しいがきわめて歴史や文化性が豊かといわれる東南アジアへ行きたいという気持ちは、カラーサ在住当時から高まる一方だった。
シドニーまで行ったあと少しばかりニュージーランドを旅行して、シドニーへまた帰り、そこから東南アジア経由でヨーロッパへ行こうと、この時点でオレは決心した。
船の乗組員数人から、ベルギーのアントワープとオランダのロッテルダムの両港に日本人が経営する船食業者があって、常に日本人を募集しているという話を聞いている。もし、そのうちのどちらかで仕事がえられれば、ヨーロッパにもしばらく住むことができるはずだ、そんな算段もあってのことなのだが。
もちろん日本に帰って早く仕事をせねば、家族を安心させねば、という気持ちは強い。東南アジアを旅行後ヨーロッパで働くとなれば、最低でもあと1年は日本へ帰れないだろう。
だが1年半と2年半とでそんなに大きな違いがあるのかという疑問、古い国や貧しい国を訪れ見聞をさらに大きくしたいという欲求、なんとはなしに日本に帰る気になれないという気持ち、などを熟慮、勘案した結果、ヨーロッパ行きの決心となった。
別に旅行が好きでもなんでもない自分だが、こんな思い切った決断をさせた運命の女神はいたずらがとてもお好きなようである。
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