1987年1月C日

歓楽街といっても、ひとつ路地へ入ればエルミタの夜は暗い。デルピラストリートの一本西の小さなストリートは灯かりも少なく、地面に何が落ちているかもわからないほどだ。そんな暗い通りをぶらぶらと約10分歩いたあと、オレは角の小さなカウンターだけのハンバーガーショップに入り、コーラを注文した。
客はオレ以外には誰もおらず、カウンター内で働く少年たちとしばし話がはずんだ。
この時期はアキノ政権が作った憲法を指示するかしないかの国民投票を直前に控えた時期で、時間つぶしにとオレは彼らにコーリー・アキノ大統領をどう思うかとの問いかけを試みてみた。
カウンター内の3人の少年たちはそろって憲法指示、アキノ大統領指示だと言い切った。その中でももっともしっかりしていて、よくオレの質問に適切に答えてくれた18歳の少年は言う。
「ボクはアキノ大統領を120パーセント指示しますよ。マルコスによって、ボクたちフィリピンの国民の努力はこれまでの20年間、空しく回転してきたんですもの。
いまフィリピンの国民は信頼しうるリーダー、そして何よりも社会の平穏を望んでいます。ボクはコーリーが信頼できるリーダーだと思うし、今度の新憲法が国民の大多数によって承認され、それによって国内が平和を取り戻すことができたら、と心から思っています。
フィリピンはかつてで日本に次いでアジアで2番目の経済大国でした。フィリピンの国民個人個人は能力があり自信を持っていますが、社会全体、国全体にまとまりがないのがボクとしては心配です。」
YMCAの近くの食堂のオバサンとまったく同じことを言う。フィリピンの人たちがいま何よりも平和で安定した生活を望んでいることは、この国にいてひしひしと伝わってくる。
この少年はさらに続ける。
「あなたは日本人ですか?ボクは現在、電気技師になるべく勉強しています。卒業後はできれば日本でさらに勉強したいですね。なんといっても日本の技術力は世界をリードしていますから。2年ないし3年日本で一生懸命勉強して、フィリピンのためにそれを活かすことができれば、と考えています・・・。」
オレは謙虚な気持ちで、少年の言葉を聞いていた。
「ボクたちは1日8時間交代で、24時間営業で、この店をやっています。週6日働いてわずかの給料(確かこの少年は1ヶ月で200ドルだと言ったと思う)では、なかなかそれもむずかしいでしょうが・・・。」
日本へ行くフィリピン人に対しては”じゃパゆきさん”という言葉の中にも暗示されるように、何か後ろめたいイメージがつきまとうが、実際この少年のように祖国の窮状を憂い、それを立て直したいと心から切望している人の数の多いこと。そういう人たちをサポートする体制を日本の政府、経済界も考慮してることとは思うが、さらなる塾考を期待せずにはいられない。
しかし、実際日本のエライさん方というのは、はたしてこんな発展途上国の底辺の人たちの生の声を直接耳にすることなんてありうるんだろうか。たいていは国の上層部の人たちだけと適当に話しをして、「なんとなく」わかったような気になって帰っていくだけではないんだろうか。
発展途上国では、先進国以上に貧富の差が激しい場合が多い。そんな国々で上層部の人々だけの話だけを聞いたとしても、それは決してその国全体の社会、国民を理解したことにはならないんではないか。もう1段も2段も見る視点を下げて地面すれすれを見ようとしないと、本当の意味での発展途上国に対する援助など到底できるはずもないといえはしないだろうか。
パトリックとの約束の時間が迫って、別れを言おうとすると、
「あっ、お客さん。お客さんは確かそっちの通りを歩いて来られましたね。その通りは夜は非常に危険です。先週もスウェーデンの男の人が恐喝にあって、大ケガを負いました。
お客さんに言っときますけど、マニラでは夜、絶対に暗い通りをひとりで歩いてはいけません。何か危険なことが身にふりかかる可能性がとても高いからです。デルピラストリートへ行くなら、こっちの通りを行った方が安全です。」
「じゃあ、気を付けて。フィリピンの旅行を思いきり楽しんで下さいね。」
と、別の少年が教えてくれた。
「Thanks. Bye!」
と、声をかけてオレはその店をあとにした。ホント、何から何まであの少年たちには教わりっぱなしであった。
先ほどの店に戻ってみると、暗い店内でも最も暗い場所でパトリックとその相手の女の子はこのドンチャン騒ぎの店の中にいるのは二人だけとばかりさらにノリまくって愛情を交わし合っていた。
やれやれ、この193センチ、23歳の「少年」は酒の酔いにも手伝われて、すっかり我を忘れているようだ。二人ともまだ服をそのまま身に着けているのが唯一の救いである。
「おい、パトリック。調子はどうだ?」
「・・あっ、ケン。えーっ、もう1時間すんだの?・・・・あのよかったら、ビールもう一本・・・飲んでいけよ。」
「おあいにく。オレはもういいよ。」
「あ、そうかい。・・オレはもう少し、ここにいたいんだけど・・・。」
「ならいろよ。オレは先に帰るから。」
「えっ、そんな・・・・。ちょっと待って!オレひとりじゃ帰れないよぉ。・・・そうだな・・・ケン。ワルイ、じゃあ、5分だけ待ってくれないかなあ・・・。」
オイオイ、ええ加減にしてくれや、このドスケベー・・・!というセリフを抑えながら、オレはただワーワーとひたすら盛り上がる一方のこの店を出た。
20分ほどたってようやくやつは例の女の子のキスを頬に受けながらやっと出てきた。そして、そこから北行きのジプニーに乗るため、マビニストリートへと向かう街灯のない暗い夜道でやつはしゃべりづめだ。
「いやー、ケン。待たしてゴメンゴメン。彼女の名はチキといって、可愛い娘だっただろ?いやぁ、可愛い娘だったよ。オレ、こっちへ来る直前にガールフレンドと別れてきたって言っただろ。そのせいか、あれだけやさしくされると、どうしてものぼせちゃって・・・。
それに、なあ、ケン。アジア人の女の子って、みんなあんなに肌が柔らかいんだい?オレの手には、いまだに彼女の肌の感触が残っているよ。あんな柔らかい肌の持ち主はヨーロッパにはいないよ。
オレは明日もあさってもあの店に行きたいんだけど・・・。ケン、付き合ってくれるだろ?ビールおごるから・・・。」
エー加減にしてくれやと思いながら、この大男の少年とジプニーでわが宿へと帰り着いた。
「鍵をお願いします。」というオレたちの声に、明るい蛍光燈の下で何やら作業をしていた受付のオジサンは手を止めて、ぶっきらぼうに、はいよ、と鍵を差し出した。
そこで彼はパトリックの顔を見るなり両方の目尻を大きく下げ、いきなりプッと吹き出した。そして彼につられるようにパトリックの顔を見たオレも思わず同じくプッと吹き出した。
オレは生まれて以来あれほど口紅とアイシャドウを誇らしげにベッタリと塗りたくって真っ赤な顔で立っている男を見たことがなかった。そして今後もおそらくないだろう。
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