D-02 東洋のベニスでのアーニャとの再会はまたしても災厄に

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1986年11月B日

川巡り

 バンコク二日目の朝11時、電話を入れると、アーニャは手紙で教えてくれたとおりのホテルに泊まっていて、オレたち二人は待ち合わせの場所を決め、さっそくバンコクの街へと繰り出した。

 が、彼女はどうも調子がいまひとつ悪そうである。聞くと、アデレードから乗った飛行機が途中のシンガポールで補修のため6時間も動かなかったとかで、昨日からほとんど一睡もしていないという。

 オレもオーストラリアを出てまだ3日目で、このクソ暑く、騒がしく、車と人の洪水の町バンコクにまだ慣れきることができず、オレたち二人はただ元気なく、文字通りトボトボと歩かざるをえなかった。

 彼女にとってバンコクは初めてのアジアの町で、見るものすべてが物珍しそうだ。路地裏の市場をのぞいた時など、
「私の知らない物しか売ってない市場に来たのなんて初めてよ。」
と、その青い目を丸くして驚いていた。
それもそうだろう。同じ東洋人のオレでさえ知らない物ばかりだったのだから。

 タイシルクの名を世界に知らしめたアメリカ人ジム・トンプソンという人の家が博物館のようになっていて、そこを訪れてみた。東洋風に住もうとした西洋人の家ということで、アーニャ始め欧米の観光客には人気のある場所のようだが、自分にとってはたいして意味のないものであった。

 ジム・トンプソンの家を出て、次にどこへ行こうかと迷っていて、たまたま通りかかった男の人にどこかこの近くに何か見に行くところはないかと尋ねたところ、彼はボートでの川巡りはどうだという。

 聞くと、まったくの偶然ながら彼はツーリストポリス(観光警察)の警官だった。そして親切なこの警官はチャオプラヤ川のボート乗り場まで、彼の車で送ってくれた。

 バンコクは川が多く、東洋のベニスと言われている。だが、このバンコクという町はそうやすやすと西側先進国からの観光客を迎えてはくれない。

 ボート乗り場の切符売りのオバサンは、ボートは一回出すごとに1,000バーツだと主張。対してオレとアーニャはそんなの高すぎる、二人で300バーツだ、と言い張って、切符売り場の机をはさんでさんざんやり取りすること約30分(このふだんおとなしいアーニャが、なぜかこの時は恐ろしいほど執拗に食ってかかり、オレはただ横で二人のツバの飛ばし合いを見ていただけだったが)。

 ようやく500バーツにまで下げることに同意したオバサンはまったくのヘソマゲ顔で切符をくれた。

 バンコク始め東南アジアの国々では、料金表のない物やサービスを買う時、ほぼ必ずいつもいつも価格交渉をしなければならない。そんな交渉術はこの町に3時間もいれば慣れるもので、オレとアーニャはここで負けてはなるものか、と変に意地になってこのオバサンと眉をつり上げての大戦争とあいなっていったのである。

 オレの知る範囲で言えば、このバンコクでは物やサービスを買う時、相手の言い値の3分の一か4分の一ぐらいから交渉を始めるのが妥当な線ではないかと思う。タイの商売人はあまり粘り強く値段を上げ留める方ではなく、二言三言交渉したあとには、だいたい彼らの望む線が見えてくる。そしてあとは個人の能力次第。相手が気の毒に思えてくれば、はいそれでいきましょう、ということでよい。

 物価の安いこの国では交渉しても10円、20円の違いしかないのだが、交渉というものは相手が意地を張り出すとこちらも止まらなくなるもので、ついついその戦いに引き込まれていく。この時ばかりは、ハンブルグのインテリウーマンのアーニャも大いにガンバッて声を枯らしていた。

 そしてようようボート巡りに出たのはよかったが、ここではパースとフリーマントル間のスワン川クルーズのような天国のような雰囲気はとても味わえはしない。

 英語も日本語もドイツ語もまったく話さないボートの船頭さんは、何の言葉も発しないまま川幅約200メートルの大河チャオプラヤ川本流を外れ、、幅20メートルほどの小さな支流へと船を回航させ始めた。王宮を川側から見たいと望んでいたアーニャが、戻って!と叫んでも(もちろん英語でだが)、彼はニヤッと笑って肩をすくめるだけで、どんどんボートを進めていくだけだった。

 ボートはバンコクでも最も貧しいといわれる地域トンブリの迷路のような運河を下っていく。列車でこの町へ入った時に見たのと同じような板ぶきの家々が運河の上にひしめくように並んでいる。

 下水処理施設などあろうはずもなく、家庭の排水は川の中へまったくのタレ流しであろう。水はまったく濁りきって、宇治茶と墨汁とビールのカクテルのような色で鈍く光っている。しかし、子供たちはこんな中でも泳いで遊んでいる。「ハロー!」と声をかけて、家の手すりからカクテルの中へ飛び込んでいく子もいる。

 オレはなんとか作り笑いを作って彼らに手を振るが、アーニャは寝不足からくる疲れとこの運河の不気味さにすっかりまいってしまったようで、途中から船がもとの桟橋に帰り着くまで約1時間半、一言も口をきけなくなってしまっていた。

 両親がデンマークに別荘を持っているとかで、明らかに彼女はドイツでもかなり裕福な家の出身らしい。そしてオーストラリアという清潔な国から一足飛びにこの尋常ならざる町へやってきては、そのあまりの乖離に自分をキープできなくなっていたのであろう。

「ケン、ごめんなさい。私、疲れて、何も口がきけなくなってしまったの。この町は・・・・私には・・・・・・。」

 ヘトヘトでボートを降りて、近くのアメリカ資本のホテルのカフェテリアで冷たいものを飲んだあと、彼女は、私、疲れてしまって・・・、とひとりで自分のホテルへと帰っていった。

 かくいうオレもそこからすぐタクシーに乗って、一泊180円のわが高級アバラ宿へと帰ったあとは、まだ陽が沈んで間もない時刻だったが、バタンとベッドに倒れ込んだまま次の日の朝までただひたすら眠り続けたのだった。

 疲れに加えて、暑さ、車とバイクの騒音、支払をするたびに毎回やらざるをえないハードな価格交渉、などこのアジアの町にまだ慣れない者には体力を奪うものが多過ぎて、冷静な判断がしにくい状態だ。

 思えば、シドニーのマンダリンクラブでの突然のストリップショーといい、この町の川巡りといい、アーニャと行く場所は災厄の場所ばかりだ。

 暑さ、騒音、排気ガス、ドロ川、ホコリ、メチャクチャ辛い食べ物、アーニャの疲れ切った表情。それが、オレのこの東南アジア最大の町バンコクの第一印象であった。

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