1987年3月D日

多少引きつった顔のトーマスは大きくため息をついた。
「たいへんなところだね、ここは。」
「ああ、車の製造番号を穴があくほどしつこく確かめられたよ。やつらときたら、ホント、人間をもっと信じなきゃ。」
「だけど、いったいどうしてあんなに厳しいんだろう・・・?」
「やつらはこの車をこの国で売られるのをいやがっているんだよ。オレがこの車をユーゴスラビア国内で売りさばけば、それは密輸をしたのと同じことになるからな。」
「厳しいんだね。」
「ああ、このあたりの国はほとんどこんな感じだそうだよ。」
「だけど、あんたシリアでこの車を売りさばくつもりなんだろ?」
「ああ。だけど、聞くところによると、シリアでは入国の際に持ち物の製造番号をパスポートに書き込むなんてことはないらしい。つまり入国した時点でのオレの持ち物は出国時にはまったく不明なわけだ。いうなれば、シリア国内ではオレがオレの持ち物をどう売りさばこうが、当局はなんら感知しないということになる。」
「誰か、以前にそれをやった人がいるのかな?」
「西ドイツ人の間ではけっこう有名な話だよ。もちろんわざわざシリアくんだりまで行くやつは少ないけどね。」
「シリアではいい値で売れるのかな?」
「腕しだいだろうけど、ドイツ国内でよりかはかなりいいらしい。もしいい値で売れたら、オレはもう少し東まで足を伸ばしてみょうとも思うんだけど。」
「気楽なもんだね。あんた、仕事は?」
「宝飾類の卸しをやってるんだ。インドやスリランカ、ビルマあたりから輸入されるいろんな飾り物を、ドイツの小売商へ卸してるんだよ。19歳の時にアフガニスタンへ旅行して以来、オレはあのあたりの地域が大好きでねえ。」
「19歳の時にアフガニスタンへ!?すごいガッツだなぁ。」
「そうかなあ・・。西ドイツ人の間ではそれほど珍しくもないよ。どこへ行っても西ドイツ人はいるしね。」
「日本人にはちょっと考えられないなあ。第一に言葉や習慣の障害がありすぎるし・・・。それにあのあたりの地域に行こうなんていう発想そのものが、19歳の時には起こらないと思う。」
「簡単なことだと思うよ。大地が続く限りただ東へ向かえば着くんだし。」
このあたり、やつの考え方はまったく「大陸的」である。彼ら大陸国家の住民は、ある一定の方向へ向かって歩けば必ずどこか外国へとたどり着く。このあたり、どの方向に向かって歩こうが海という国境線に道をふさがれるわが国の国民とは意識の上で決定的な違いがあるんだろう。
夜が明けた。車は原野の一本道をひたすら真っ直に走っていた。運転はトーマスと中年の西ドイツ人が交代でやっているが、二人ともそれほど疲れを見せない。さすが古い型ながらもベンツはベンツだ。長距離運転に適しているというのは、やはり高級車の条件なのだ。
3月初旬、地中海国家のユーゴスラビアとはいえ、依然春の気配は見えない。両側には冬のために使われていない生産性がいかにも低そうな畑地が続き、舗装状態の悪い道路が続き、骨董品のような町並みが過ぎて、灰色の雲がそれらすべてを覆っている。ここへ来て、ああ、オレたちは「東」の国へ入ったんだ、と実感する。
北半球にあっては、北から南に向かって、統計上、明らかに豊かさのグレードが下がっていく。こうやって西ドイツ、オーストリアという「金持ち国」からここユーゴスラビアへと入ってくると、視覚的にもそれが真実であることが良くわかる。人々の表情も車中から見る限り、暗くてあまりハッピーとは言えそうもない。
ドライブインで昼メシを終えて再び走り始めて間もなく、突然、道端の警察官らしい服装をした男が右手をオレたちの車に向かって大きく差し出した。止まれ、という合図らしい。運転していた中年の西ドイツ人は、チェッと口を鳴らして、車を右側に寄せて止まった。
その警察官はドイツ語らしい言語で、ドライバーと何やら話し込んでいる。お互いよく意思が通じないらしく、筆談混じりの会話である。
2、3分のやり取りのあと、中年男はおもむろにポケットから10マルク紙幣を取り出し、それを警官に手渡した。警官はニヤッと笑ってその紙幣を胸の内ポケットにしまい込み、バイバイと手を振った。
中年男は再び車を走らせたが、彼はトーマス相手に何やら憮然とした表情でブツブツと話し合っている。
「どうしたんだって、トーマス?」
「スピード違反だってさ。」
「スピード違反・・・?だけど、あの警察官はスピードを計る機械なんて持っていなかっただろ?それに切符も渡さなかったし・・・。」
「この国ではやつらの目が機械なのさ。やつらが20キロオーバーだと言えば、20キロオーバーになるし、やつらが50キロオーバーだと言えば、50キロオーバーになるんだよ、この国では・・・・。」
「では切符は・・・?」
「知らないよ。あの10マルクはやつらのポッケに入るだけなんだから・・・。」
なんてことだ。早い話があの警官はドライバーにたかっているに過ぎない。西側の先進国では考えられないことだが、やつらは警察という権力を振り回している大ドロボーだ。
「ケン、ここは東の国だからな。郷に入らずんば何とやらだ。やつはこの車の西ドイツのナンバープレートを見て、いいカモだと思ったんだろう。ああいうやつらにはハシタ金を渡して、目の前から姿を消さすのが一番手っ取り早いんだよ。」
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