1987年3月K日

晴天、正午過ぎ。
イスラエルのハイファまでオレを運んでくれる船がロードス島の港へゆっくりと入ってきた。紫の海に白い船体が美しく映えている。あと2、3ヶ月もすれば、人々がシエスタ(午睡)へと家路をたどっているであろうこの時間、船は実にゆっくりとその船体を桟橋に横たえた。
このギリシャ領ロードス島はきわめて美しい島である。それこそカネと時間さえあれば何日でも過ごしていたいところだ。何百年昔のものなのかまったく見当もつかないほど東地中海風の古い町並みは、東洋のはるか端っこからやってきた者の目をぐっととらえて放そうとしない。
だが、今日のイスラエル行きの船を逃せば3日後まで次の便はない。それに持ち金全財産がいよいよ150ドルを切ったオレにはこの美しい島で過ごす余裕などとうていあるはずもない。島での滞在時間わずか約24時間で後ろ髪を引かれる思いだがどうしようもない。
イスラエルに着いてキブツなりモシャーフなりに入って、一刻も早く自分の「住む場」を確保しなければ。そこでこれからのヨーロッパ復帰作戦をじっくりとたて直す。さもないと、この苦しいサイフの中身では何の計画も立てられはしない。
よく日焼けした男たちがロープで船を桟橋に留める作業をする横をかすめて、オレはゆっくりと船の入口へと向かった。そして周りにはよくもまあこれだけヒマなやつがいるもんだ、と感心するほど多くの安旅行者たちが集まって、自然に乗船の列ができていた。
大きなバックパックにブルージーンズというお決まりのいでたちで、みんな船の入り口へゾロゾロと足を運んでいる。カナダやスイスやオーストラリアの国旗を恥ずかし気もなくバックパックに縫い付けたやつらのうち、誰一人として急ぐ者はいない。この3月の明るい太陽のもと、時間などまったく気にかけない自由な若者たちの動きは艶やかなまでに緩慢だ。
この船に乗り込もうとする客はほぼ全員がヨーロッパに起源をもつ人種の人たちだ。つまりフランス、イギリス、ドイツ、北欧などの西欧、アメリカ、カナダ、ブラジルなどの南北アメリカ、そしてオーストラリア、ニュージーランドなどからの若者が98%ほどか。残りの2%は中東辺りの顔立ちの人。そして東アジア系のいわゆるモンゴロイドはオレたった一人だけだ。
ちなみにドイツを出て以来、モンゴロイド人種を見たのは大都市イスタンブールで見た日本人旅行者だけで、このようなオレ=東アジア人の代表的な状況はこの地域では普通だが。
船の入口のところまで来た。船尾がパックリと開いて、車やコンテナがぎゅうぎゅう詰めに積み込まれているのが見える。その隙間でギリシャ人らしい、黒い巻き毛、大きな目の男たちが、何やらバカ話をして笑い合っている。
何の変哲もない万国共通の船の接岸風景であった。だが、オレたちはここで思いがけぬことに遭遇することになる。
一番に船に乗り込もうとしたメガネをかけた背の高い男の旅行者が、タラップの前で一人の制服姿の男と何やら話し込んでいる。制服姿の男はしかめっ面で、旅行者の男は緊張した面持ちに時々ひきつった笑いを作りながらの対話である。オレたちは何が話されているのかわかろうはずもなく、ただぼうっと待つだけ。
ギリシャの出国手続きはみんな済ませている。ハテ?いったいこの二人はなにを話し込んでいるんだろう。
その制服男は結局5、6分間そのメガネの旅行者相手に話し込んだあと、ようやくパスポートを返し彼を釈放した。やれやれと思って歩を前に進めると、制服男は次のデンマーク人の国旗を縫い付けた女の子二人連れとも同じようなしかめっ面でまた何やら話し始めた。彼女たちは多少とまどった表情を見せながら、制服男と話している。
男は地中海沿岸添いに共通の顔、つまり浅黒い膚、大きな目と鼻、そして黒い縮れた髪を持つ小柄なやつだ。だが、この地域には不釣り合いなくらい鋭い眼光と引き締まった口もとを持つことは、この制服男を何かずしっと存在感のある人間として際立たせている。彼女たちは手さげかばんの中身を見せたり、パスポートのそこかしこを説明したあげく、ようやく通過。
次のカップルも、その次の金髪の男も、その次のギターを抱えた男も、誰もがみんなその制服男にパスポートを見せ、数分の間何やら質問を浴びせられている。前から15、6人目にいたオレも、そのあとに続いている数十人の他の乗客たちもみんな、これいったいどうなってまんねん、という思いであった。
通常の出国審査の場合、その国境の空港なり港なり道路なり駅なりでスタンプを一旦押されると審査はそれで終了を意味し、そのあともう審査は一切ない。ギリシャの出国スタンプをすでに押されたオレたちには、もうギリシャ側の審査は残っていないはずだ。
この船はギリシャのアテネ発で、このロードス島からキプロス経由でイスラエルのハイファまで行く定期運行船である。となると、この制服姿の男はそのどれかの国の政府の人間なのか。それにしてもじれったい、まったく。
いよいよオレの番がきた。オレは例の真っ赤な日本国パスポートを制服男に渡す。
この日本国パスポートというやつは、おそらく世界でも最高のパスポートのひとつだろう。ロンドンのクソッタレどもには泥をベッタリコンと塗られたが、それは日本国パスポート保持者を差別したからでないのは、あの特別室や収容所に入っていた他の国のやつらのことを思えば明らかだ。
あれ以外の国境審査では、変な言いがかり、不必要な身体検査の類は一切受けたことはなかった。この真っ赤な小冊子はスイス、スウェーデン、デンマーク、カナダあたりと並んで、おそらく世界で最も「信頼性のある」パスポートのひとつではないだろうか。オレはパスポートを受け取った小柄な男を見下ろす感じで、ニヤッと笑みを投げかけた。
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